お墓開きと納骨

10月7日は珍しくお墓開きが夕方でした。

豊田市と岡崎市内で同じような時間でしたので、犬正@社長が豊田市、女将が岡崎市。

一人ですと写真撮影が出来なくて、本当に申し訳ないんです。

私の担当の岡崎市K家は準備中の写真だけとなりました。

 

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墓石本体・芝台:十万石青石

 

こちらのお寺はその昔、三河一向一揆のあったお寺です。

 

では、三河一向一揆について。

永禄6年(1563年)9月、松平家康の命を受けた菅沼定顕が浄土真宗本願寺系列寺院である上宮寺から、

糧米を強制徴収したことから一向宗徒が蜂起したといわれています。

西尾城主の酒井正親が坊主を捕縛したことがきっかけとなって一揆が起こったともいわれていいます。

松平氏は西三河を平定し、今川氏の領土である東三河方面に進軍するため、農民からの納貢米に加えてこれを寺院にも適用したようです。

三河の本願寺教団は、松平広忠に与えられた不入の特権(検断権の拒否である年貢・諸役の免税)を元に寺内町を形成し、

寺内から取り立てた諸税を本願寺に上納したり、松平家臣に貸し付けたりしていたため、三河統一を目指す家康としては、

必然的に解体を計らねばならぬ存在でした。

一向一揆は、三河三ヶ寺(上宮寺・本証寺・勝鬘寺)に集結した門徒衆と、これに呼応した吉良氏・荒川氏・桜井松平氏・大草松平氏などの在地領主を始め、家臣の酒井忠尚や夏目吉信らが家康に反抗の姿勢を構えた。

また、鳥居氏・石川氏・本多氏・内藤氏の一門衆からも一揆側に走るものが多く出たため家康は苦戦し、

上宮寺に鳥居氏、勝鬘寺に大久保氏、本證寺(安城)に藤井松平氏、西尾城に酒井正親を配置して対抗した。

永禄7年(1564年)、上和田の戦いで敗れた家康は山中八幡宮にある鳩ヶ窟に身を隠して一揆軍の探索を逃れるという危機にも直面しましたが、

戦が長引くにつれて家康に降伏してくる者が続出し、吉良氏・荒川氏といった反抗在地領主は三河から退去。

戦後、家康は一揆に加担した多くの家臣を許し、一向宗は禁止された教団とされ解体されました。

その後、天正11年(1583年)に叔母・石川妙春尼の嘆願によって本願寺派寺院は再興を許され、現在に至ります。

上宮寺は石工団地の近所です。

 

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現在の勝鬘寺