日露国境の石

17日から仕事始めでした。

16日には中日新聞岡崎支社より取材がありました。

弊社の製品ではありませんがご縁あって岡崎から稚内に国境の石のレプリカを発送致します。

ご依頼主は樺太生まれ。

今日は日露国境の石について少しお話をします。

 

日露戦争後の1905年(明治38)ポーツマス条約(日露講和条約)で樺太の北緯50度以南を日本が領有することになりました。

同年の停戦直前には日本軍は既に樺太全島を占領していました。翌1906年(明治39)から1908年(明治41)にかけて天文測量による日露両国の国境画定作業がおこなわれ東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡側までの132キロメートルの間に4基の天測境界標、17ヶ所に平均6キロメートルごとに中間標石、19ヶ所に木標がたてられました。

また国境全線にわたり幅10メートルの林空が開かれました。

 

日本側委員に同行した志賀重昂(しが・しげたか 1863~1927)の1906年(明治39)の日記には日露委員の活躍状況が詳しく記されています。志賀特有の美しい文章で文学作品としても評価されています。

志賀は札幌農学校出身、農商務省山林局長、衆議院議員など歴任、明治の地理学者として有名で代表著作として「日本風景論」があります。

矧川(しんせん)と号しましたが矧川は故郷の愛知県を流れる矢作川(やはぎがわ)のことです。

 

天測境界標は現地での加工があったためか標石の大きさ、形状、刻字は4基の標石すべて同じではありません。高さ60~77、底辺40~56、下部奥行き24~30センチメートル程度で将棋の駒のような形になっており現地では巨大な基礎石の上に載っていました。[樺太境界劃定委員:樺太境界劃定事蹟 陸軍省 1910 附録第八附圖]

 

標石の意匠は志賀重昂の意見によるものとされています。著作にも標石の意匠について述べられています。

八月二十五日(土曜)晴。(中略)ボロナイ川岸の第二測點に達し、馬を下ると、此處には日本の石工が汗を拭ひつつ境界標石を彫刻して居る。これは参州岡崎の北に産せし最も堅き花崗岩にて、南面には日本領とて菊花の御紋章、北面には露國領として雙頭の鷲を刻るのである、丁度南面の菊花と『大日本帝国境界』の文字が刻り上がり、而かも見事に出來上がりたれば、予は石工の頭領(和田)に向ひ、善く刻れたなーと喊(わめ)くと頭領には、ハイ、一生一代の事で御座いますから刻下(ほりした)の版紙丈ケ紀念に頂戴致したう御座りますと云う。[志賀重昂:大役小志 博文館 1909 p1116(志賀重昂全集 1928では樺太境界劃定(第三天測點劃定行)p123)]

 

今回、弊社より稚内の送るレプリカは天第四号国境標石のレプリカで明治神宮に設置た標石を参考に岡崎で作られました。

日本石材工業社によると平成16年にレプリカの記事が掲載されているとお聞きしました。

寄贈用のレプリカを製作した時に、ご依頼主が帰れない故郷に思いを込めて自費で作成したのが写真のレプリカです。

20180821

ご自宅の庭に設置されていましたが、今回稚内教育委員会からのご要望で、一般社団法人 全国樺太連盟を通じて

ご寄附されます。

新しい場所で多くの方にご覧頂き、歴史についても合わせて勉強して頂けると嬉しいです。

 

犬正石材店@女将